松林山 地蔵院 縁起

縁起
 

松林山 地蔵院 坊合寺 縁起


※真言宗の寺院は、「◯◯寺」というような「寺号」と「◯◯院」というような「院号」の、2つの寺院名を持ちます。通常はどちらかの寺院名を呼称しており、当院は「地蔵院」の方を呼称しております。 「縁起」は寺院の起源・沿革・由来等を意味します。 

 

昔、地蔵院周辺は下総国(しもうさのくに、と読む。現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする地域。)の下河辺荘(しもこうべのしょうと読む。現埼玉県北葛飾郡と茨城県猿島郡の一部、および千葉県野田市の一部を含む一帯)の中の葛西郡(現東京都・埼玉県・千葉県・茨城県にまたがる南北に長い地域)という地域に属し、それが平安時代になると猿島郡(さしまぐんと読む。現茨城県坂東市・境町・五霞町一帯の地域)に属することとなり、さらに寛文(1661~1673年)年中に武蔵国(むさしのくにと読む。東京都・神奈川県川崎市・横浜市・埼玉県のほぼ全域を含む地域。)の葛飾郡(上記葛西郡とほぼ同様の地域)に編入させられたと伝えられています。

 

そして平安時代には、地蔵院付近に大河が洋々としてあり、その東北方向の浴岸一帯は蘆(「よし」と読む。葦(あし)のこと。)や茅(かや)等がおい茂っていたために蘆場(「よしば」と読む。現在の地蔵院周辺は「吉羽(よしば)」地区)と呼ばれたと伝えられています。 また、昔木立村(現埼玉県幸手市木立地区。地蔵院が所在する吉羽地区に隣接する。)に光明院と云う立派なお寺があり、関東の真言宗の名刹(有名な由緒あるお寺)として隆盛を極めておりました。そして光明院には東の坊、西の坊(坊は僧侶が住むための建物)と言われる二つの学寮かあり、この土地が両方の坊に接していたので人々は坊合の里と呼んでいたと伝えられております。 

 

文治三年(1183年)下河辺(現茨城県古河市から埼玉県三郷市までの地域)の庄司(領主の代理として、荘園における年貢の徴収や管理などの任務を行う官職)である行平という人物の弟で四郎政義という人がある夜の事、 霊険あらたかな夢を見ました。その事に感動して四郎政義は紀州(現和歌山県)の高野山より子育地蔵尊を勧請(仏の来臨を願うこと、この場合は仏像を高野山より施与されること。)して、その仏像を山西の坊に安置して信仰したとの事です。 その後数年を経て、東の坊・西の坊共に全て破壊され(経緯不明。)、境内には松の木が繁茂して松林となってしまいました。その松林の中に小さな御堂が建ち、 仏像は淋しくその中に安置されていたと言われています。

 

それから空しく130年余りの歳月を経て元亨元年(1321年)一帯の領主で吉羽左衛門(官職名)の源親泰(みなもとのちかやす)がその霊跡の荒れ果て様をなげき、松林を堀り起し境内を造り、 そこに立派な御堂を建設しました。そして寺号(寺の名前)を「松林山坊合寺」と名づけ、四郎政義が勧請した地蔵尊(慈覚大師の作と言われている)を本尊として興隆させたと伝えられています。

 

その後、永享年中(1429~1441年)に一色伊予守(いっしきいよのかみと読む。官位名。)である頼氏候の奥方、梶の戸御前が子育地蔵尊を深く信仰し、御堂を再建して頼俊阿闍梨(あじゃりと読む。指導者となれる徳の高い僧侶のこと。)をお招きして中興の開山としました。そして寺号を松林山地蔵院坊合寺と改めたと言われています。しかし中世において訳あって(災害にあったと伝えられるが詳細不詳)寺域を現在の場所に移し御堂を建築したと伝えられており、その荘厳さは近隣にまれなる御堂であったといわれます。 しかしながら明治2年(1869年)に不幸火災を被り一山総べて焼失しました。その後庫裏(寺院の台所に当たる建物)の一部に本尊を安置し、30数年経て明治34年 (1901年)檀信徒各位の 御寄進により本堂か再建されました。  

また、地蔵院の近くである木立村(現埼玉県幸手市木立地区)に鎌足山正覚院という古いお寺があり、 口伝によると天慶(938~947年)年中に平将門が叛逆の際、 下野国(しもつけのくにと読む。現栃木県一帯の地域)の押領使(警察・軍事的な官職)である田原藤太秀郷がこの地に陣営を張った際、木立村にある寺の住職である雄寛和尚にお願いして、先祖の大織冠(たいしょっかんと読む。後の正一位に相当する朝廷最上位の官位。史上藤原鎌足のみ就任。)の鎌足公の菩提を弔うため御堂を建てました。その寺の名前を正覚密寺と称し、光明院に安置されていた薬師如来をお迎えして 本尊とされたといわれます。

 

しかし応永年間(1394~1428年)に洪水の被害に遭い、 仏堂並に寺坊皆共に流失してしまいました。永正十五年(1504~1521年)、宥津上人という僧侶が再建し、鎌足山正覚院と名付けました。その後数百年を経て正覚院の法灯(仏の正法が世の闇を照らすことを灯火にたとえていう語)は荒れ果てて昔の面影なくなり、 名刹(有名な由緒あるお寺)と呼ばれたこともある寺の境内は空しく桑田となってしまいました。 明治45年(1912年)、先々代の地蔵院住職である顕隆和尚が正覚院並に地蔵院の檀家諸氏と協議の上、許可を得て地蔵院に合併し本尊薬師如来は地蔵院に奉迎し安置しました。

昭和54年(1979年)3月、現本堂を檀信徒各位の御寄進により再建しました。
平成16年(2004年)8月、現鐘楼堂並びに山門を檀信徒各位の御寄進により再建しました。
平成29年(2017年)1月、現客殿を檀信徒各位の御寄進により建立しました。 

以上が松林山地蔵院坊合寺の縁起と伝えられております。
(松林山 地蔵院 第36世住職 昭隆和尚(先代住職)が調査・記載した文章を加筆・修正)」